文泉堂-bunsendo

2020/10/14 08:58


長浜/城下町から門前町へ 豪華絢爛な「長浜曳山まつり」の誕生

後に天下人となる羽柴秀吉が初めて一国一城の主となった「長浜城」。「長浜」はその城下町として秀吉が開いた商業都市です。楽市楽座による自由な経済活動は人々に富をもたらし、町は繁栄していきました。秀吉は念願の長男が生まれると喜びのあまり、城下の民に砂金を振舞ったといいます。人々はそれをもとに曳山を造り、長濱八幡宮の祭りに繰り出すように。現在までつづく「長浜曳山まつり」が始まりました。

江戸初期、長浜城は閉城しましたが、その後は浄土真宗大通寺の門前町として、また北国街道の宿場町として益々賑わい活気付いていきました。江戸中期、富を蓄えた町人たちはこぞって曳山に贅を尽くすようになり、「動く美術館」とも賞される豪華絢爛な装飾はこの頃にあしらわれていきました。

曳山まつりの最大の見所は、長濱八幡宮から長浜城の大手門跡にある御旅所へとゆく各所で上演される「子ども歌舞伎」です。子どもたちの演技はまさに「歌舞伎役者」そのもの。大人顔負けに見栄を張り、観客からは歓声が飛びます。雪解けの頃、街のあちこちからしゃぎりの音色が響き始めると、人々は浮き足立ち、町は祭り一色の春を迎えます。

 

文泉堂の歴史

文泉堂は嘉永2年(1849年)、「銭作」という地域の両替商として始まりました。奥座敷は客人が荷物を下ろせるように一段高く上がっており、両替商としての面影が残っています。中庭では保存指定樹木の梅の古木が毎春静かに花を咲かせます。江戸後期の画家狩野派の岸駒(1749-1839)が、宿泊の礼に描いたと伝わる襖絵に梅の大木の姿があり、すでにその頃には大きく成長していたことがわかることから、樹齢400年といわれています。初代長浜町長の吉田作平(1863-1925)も、この頃に弊家から誕生いたしました。

 時代とともに家業は移り変わり、新聞配達所や文具店などを経て、昭和初期には雑誌や小説の配達や教科書の販売をする町の小さな本屋を営むようになりました。一時、客足が落ち着いていた商店街でしたが、「黒壁」と共に宿場町の名残があるレトロな街並みに注目が集まり、多くの観光客が訪れるように。そこで、若者や県外の人にも幅広く利用していただこうと1998年、店舗をリニューアルいたしました。閉じていた奥座敷を開放し、庭がのぞめるカフェを併設。天井を覆っていた板を外すと、昔ながらの立派な梁も現れました。かつての趣を活かした店構えは「江戸期の商家の佇まいそのもの」として、市のまちづくり風格賞を頂きました。

 

文泉堂と曳山まつり

 文泉堂の脇の札には「天保9年(1838)井伊豊前守、銭作の桟敷で曳山祭りを見学する。」とあります。祭りの本日、出番山が長浜八幡宮を出て御旅所まで向かう道中、各所で子ども歌舞伎が上演される場所を「席」と呼びます。昭和30年代頃までは、道路の両側を埋めるように「桟敷席」と呼ばれる観覧席が用意され、商家は見物しやすいようにひさしを取り払い、相撲の升席のようにして歌舞伎の見物を楽しんでいました。

冒頭の札の「井伊豊前守」とは、十代彦根藩主井伊直幸の十二男、井伊直容のこと。直容の他にも、井伊家の人々はたびたび曳山まつりを見物に訪れ、最後の藩主であった直憲は明治に入ってから2度観覧に訪れた記録が残っています。銭作(文泉堂)の桟敷席は、店の間口が広く奥の座敷からも狂言を見ることができました。用心棒などを抱えた井伊家が銭作の桟敷で見物されるのは、一種の慣例だったのかもしれません。

 しかし、商家が少なくなったことや、保管の手間がかかることなどから桟敷は姿を消していき、銭作の桟敷も一度は廃止に。約20年前、先代がかつての写真や伝承などから桟敷を復元。銭作席は、祭りの役員である総当番席としてよみがえりました。


 

文泉堂のこれから-長浜の発信拠点へ

 文泉堂は、両替商から様々な商売を経て本屋を営むようになりました。地域に根付く商家として、これからの時代に目指すものーー「モノを売ることではなく、コトを体験してもらう地域の発信拠点」として、町の人や外から訪れてくれる人に、面白いと思っていただける場所になっていきたいと思っています。欲しいものは簡単に手に入る時代です。良いものを見つけてもらえる発見のある場所、経験や楽しみを共有できる場所として、特別なストーリーをお伝えできる商品を揃えて、みなさまをお待ちしています。